たんぽぽ舎パンフNo.47 プルサーマルいらない

47 プルサーマルいらない?刈羽村住民投票の記録と展望?(改訂版)
2001年12月 36ページ 400円
菅井益郎 小林圭二 近藤容人 鈴木かずえ 松村達也 山崎久隆
 

 

目次

 
■ 1部  写真と文
1-1 【写真】 刈羽村プルサーマルの是非で住民投票、反対派勝利へ
[刈羽の勝利は世界的な大事件]
 
  (グリーンピース・ジャパン)鈴木かずえ …1
1-2 プルサーマルを拒否した刈羽村住民投票の意義  
  国学院大学 教員・たんぽぽ舎アドバイザー 菅井益郎 …2
1-3 プルサーマルの安全性について
(2000年5月22日 刈羽村 住民投票・原発・プルサーマル公開討論会資料)
〔1〕濃縮ウランを燃やす原発でプルトニウムを燃やす 
〔2〕制御棒の効きが悪くなる
〔3〕海外の実績は参考になりません 
〔4〕日本の準備はまったく出来ていません
〔5〕プルサーマルは将来、もっと危険になります
 
  京都大学原子炉実験所 小林圭二 …4
1-4 全国の皆さんに感謝する  
  新潟県刈羽郡刈羽村・村議会議員 近藤容人 …10
1-5 刈羽村プルサーマル反対住民投票勝利!
品田村長は「事前了解」を撤回せよ!
 
  柏崎・巻原発に反対する在京者の会 松村達也 …12
1-6 東京版の読売、朝日、毎日社説に見る 報道姿勢  
  たんぽぽ舎 山崎久隆 …18

■ 2部  資 料 編
2-1 公開討論会 論点分析チラシ
[プルサーマルの必要性・安全(危険)性・地域との関係]
 
  作成 私たちの声を村政にとどける会 …22
2-2 推進派のビラ 「信頼しています。私たちは賛成します!!」  
  作成 刈羽村を明るくする会 …26
2-3 経済産業省チラシ
「プルサーマル実施は、日本と地域の未来のために必要です」
 
  作成 経済産業省 …27
2-4 批判チラシ [ウソ八百の経済産業省]    
  作成 グリーンアクション …30
2-5 六ヶ所村へ搬入された使用済み燃料を元に戻すよう青森県知事らに求める要請文  
  作成 核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会 代表 平野良一 …32
2-6 青森県知事、六ヶ所村長、経済産業大臣、電事連会長への申入書  
  作成 青森県保険医協会 …33
2-7 六ヶ所核燃料施設に関する現状報告  
  作成 核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団 …34
2-8 国会議員の推進派支援ビラ 「刈羽村のみなさま」  
  署名者 衆議院議員 田中真紀子・近藤基彦 参議院議員 田中直紀 …36
(本文より)
プルサーマルを拒否した刈羽村住民投票の意義
国学院大学 教員・たんぽぽ舎アドバイザー 菅井 益郎(柏崎出身)
 
 2001年5月27日に刈羽村で行われたプルサーマル(*1)受け入れの是非をめぐる住民投票は、本パンフで刈羽村議の近藤容人氏が報告しているように、反対派が劇的な勝利をおさめた。投票率88.1%、反対は1925票で有効投票の53.4%と過半数を超え、賛成は1533票で42.6にとどまった。その差392票をどう見るかは判断の分かれるところだが、それほど大きいとは言えない。しかし筆者の予想をくつがえして保留が131票、3.6%ときわめて少なかったことは注目に値する。それは村民一人ひとりがぎりぎりの所まで考え、選択したということを示しているからだ。これも近藤氏の報告にあるように、ここに至るまでには、1998年夏以来の真剣な議論があったのである。住民投票条例は一度目は圧倒的多数によって否決され、二度目は村長が再議に付したために廃案となり、そして三度目の正直でようやく成立、実施に至ったのである。刈羽村民の実にすばらしい成果である。

 この住民投票の意義は大きく見て二つあると考えられる。第一は言うまでもなくプルサーマルを受け入れるか否かを住民自身が考え、決定したことである。保留の少なかったことの意味は重要である。およそ4戸に1戸の割合で家族の誰かが原発関係の職場で働く、いわば東電城下町というべき刈羽村において、村民たちはさまざまな圧力をはねのけて自らの意志を表明した。「国策」として進められている原発に反対する者は「国益を損なう者」であるかのごとく非難する地元有力者や原発推進派の圧力に屈しなかったのだ。またプルサーマルをやめれば原発は運転できなくなり、原発に働く者は失業する、という露骨な賛成強要をはねのけた。佐藤武雄刈羽村を守る会会長は「村民の良識でかつことが出来た」と語ったが、巻町と同じように、自分たちの村のことは自分たちで決めたのである。まさしくこの住民投票は自治の根本を発揮したものといえる。

 第二は住民投票の結果、事実上プルサーマルは当面不可能になったということである。もしこの状況が続けば、それこそ東京電力や原発推進派が言うように余剰プルトニウムの処理が出来なくなるから1960年代から進めてきた核燃料サイクル計画は破綻せざるをえない、つまり再処理→プルトニウム利用という原子力政策は大きな変更を強いられるというわけだ。柏崎・刈羽でプルサーマルが止まれば、おそらく福島でも福井でも止まり、そうなれば六ヶ所の再処理工場も不要になるし、イギリスやフランスの再処理工場も採算割れをして閉鎖に追い込まれるだろう。刈羽村の住民投票は日本だけでなく世界の原子力政策を変える契機となりうるのである。

 刈羽村では原発建設が始まる前、とくに70年代前半においては全国の原発立地点の中でもとりわけ厳しい大衆運動が展開された地域の一つである。刈羽村の中心である大字刈羽では選挙で反対派が執行部に選ばれ、電力の介入によって部落が分裂するまで数年に渡って部落を運営した。刈羽の婦人たちの直接行動は推進派の政治家たちを何度も震え上がらせるほど元気だった(*2)。しかしその後十数年住民の運動は沈滞を余儀なくされてきた。今その刈羽村の中で何が起こっているのか。原発にどっぷりつかり、新潟県下でも最も豊かな財政を誇り、人口5千人ほどの村では使い切れない固定資産税が入る村で、「金だけで生きているんじゃないぞ」と怒りを爆発させたのが今度の住民投票だったのではないか。

 住民投票から2ヶ月半たった8月中旬、東京電力は多数の人員を注ぎ込んで本格的な巻き返しの活動を始めている。反対派がここで手を抜いたらすべて元に戻ってしまうだろう。
 
 刈羽村のプルサーマル受け入れ拒否の闘いを振り返りつつ教訓化し、政府・東京電力による巻き返しを阻止するための資料としてこの冊子は編まれたのである。
 
*1
 炉心の3分の1にMOX燃料(猛毒のプルトニウムとウランとの混合酸化物燃料)を使用して発電する。プルサーマルは1995年12月の高速増殖炉「もんじゅ」の事故の結果、余剰プルトニウムを処理する必要上急遽推進が決まった。いわば日本の核燃料サイクル計画の鬼っ子であり、日本の原子力政策の大幅な路線変更を意味する。
*2
 この時期の柏崎・刈羽の住民運動については、高柳謙吉の「放射能から命を守る闘い?柏崎原子力発電所建設阻止闘争?」(『新地平』1974年11、12月号)を参照。


(本文より)
全国の皆さんに感謝する
新潟県刈羽郡刈羽村・村議会議員 近藤 容人
 
 2001年5月27日、プルサーマルについての住民投票で、「受け入れにNO!」が勝利した。我々は泣いた。顔中グチョグチョになった。たがいに握手し、だきあった。男も女もない。村民も支援もない。ただひたすら嬉しかったのであった。
 思えば30年間、国と東電にはどんなことをやっても勝てなかった。ゾウとアリの闘いだったのだった。否、大多数の村民にとっては、自分の意志を表現する機会が全く無かったのである。アリだって自分の意志をカミツクことで表現する。一部の勇気ある者が十人声を張り上げたところで、それは五千分の十でしかない。実は私もサイレントマジョリティの一人であった。
 
 1999年、となりの柏崎市の署名運動に励まされ、刈羽村でも住民投票を請求する署名運動を行った。新潟の冬は寒い。突風が粉雪をふきあげる。吹きだまりに車が突っ込むと出られない。トカトカに凍った道でツーと滑り命拾いをする。サラリーマンは夜でないと会えない。夜は気温が下がって暗くなるので危険度は倍加する。1月から2月は一年中でも特に寒い。皆しばれる体にむち打って頑張った。当初保守系議員は、署名は集まっても200位だろうと嘲笑した。然し結果は1300も集まった。有権者4000人に対してである。柏崎市では、有権者80000人に対して26000集まった。柏崎、刈羽ではかつてない大衆運動となったのである。だが、両方とも条例賛成議員が少なく、両議会ともぞうさなく(容易に)否決してしまう。刈羽村に至っては、条例に賛成したのはたった一人だったのである。

 2000年、11月で任期切れになる村長に対抗して、議員の西巻俊一氏は3月半ばすぎ、早々と出馬を表明、すると村長の加藤実氏はなんと、その2日後不出馬を表明したのである。今にして思えば、これが激動のはじまりだった。「なぜ!」「どうなったんだ!」加藤氏後援会は大混乱におちいった。不出馬の本当の理由は未だに加藤氏のムネの内である。ラピカ事件の追及を乗り切れないと考えたのであろうか。
 6月になると、1万円のタタミを13万円で購入したことが発覚し、事件をもみ消す為か、品田宏夫氏が出馬を表明することになる。品田氏は現職の議長であった。さらに近藤昇氏、加藤幸夫氏、武本和幸氏と合計5人の村長候補が乱立することになる。合わせて議員2名の欠員を補う為、村議会補選も行われることとなり、7月1日、近藤容人(筆者)がまず名乗りを上げ、女性を含む5人で2議席を争うことになったのであった。
 刈羽村政百年にして最大の政治闘争の場と化した選挙戦で、勝利者は村長に品田氏、議員にKH氏と私であった。補欠選で2名を得ると議会が逆転する。

 1999年、統一地方選挙で刈羽村議会は、定数18に対して条例賛成派が3名に躍進していた。これは第一次署名運動の成果である。
 この3名に補欠の2名、保守反主流4名が合流したのだ。さっそく、12月定例に議員提案で条例案を提出し可決、然し2001年1月5日村長は再議に付して否決・廃案となる。我々は、「村民の声を届ける会」を立ち上げて、ただちに第二次署名活動に突入した。またしても厳寒の1月であった。寒さと疲れが襲う。それに対して村と東電一体となった妨害が我々の行く手をはばむ。「署名お断り」の張り紙はこたえた。18集落いたる所これが貼ってある。ベタベタと。「ごめん下さい」の一言が言えない。然し、JCOを思い起こせば「なにクソ!」と思う。高浜のMOX燃料のデータねつ造のことを考えれば「やるぜ!」と思う。そして1540名が「とどける会」の運動に参加してくれた。署名したのだ。
 その頃福島県知事は、プルサーマルの受け入れを拒否した。なんと、福井、福島、新潟と、3県のうち2県でプルサーマルが中断した。
 
 2001年3月18日、臨時村議会で、条例案が可決された。今回は、保守の主流派から勇気ある造反議員が出現し、又、主流派の長老一人が病欠だったため、なんと10対6で可決したのであった。なんという変わりようだろうか!。
 然しそれでも村長の権限は強大である。再度再議に付されれば、それを覆すためには三分の二が必要だ。12名などどうやって確保できるというのか!。住民がこれほど望んでいるのに、三度も挑戦してなお住民投票ができないのか?「国策への住民投票はなじまない」として厳として受けつけないのである。然し、奇跡は起こったのだ。

   (続く)



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